日出る処のトライアスロン
東日本大震災、そしてオリンピックの延期など、多くの困難に直面する日本。トライアスロンはそんな状況下で独自の役割を果たしてきた。トライアスロンシーンを長年取材してきたライターの東海林美佳と、日本の長距離競技を世界に発信しているブレット・ラーナーがレポートする。
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多くの文化や技術において、日本は欧米のものをいちはやく取り入れながらも、独自の進化を遂げてきた。トライアスロンにおいても、似たようなことが言えるかもしれない。
アメリカで生まれたスポーツ、トライアスロンの日本への伝播は早かった。オアフ島で第1回目のアイアンマンが行われたのは1978年だが、日本初のトライアスロンが開催されたのはそのわずか3年後の1981年のことだ。鳥取県米子市で行われた皆生(かいけ)トライアスロンである。スイム2.5km、バイク63.2km、ラン36.5kmという距離で女子2名を含む53名が競い合った。温泉と海を売りにする観光地の集客イベントという位置付けだったが、情報も少なく言葉の壁も厚かった当時において、関係者の苦労はいかほどのものだっただろうか。当時の記録を調べると、同年2月のアイアンマンハワイに日本人として初出場した選手のところへ赴き、現地の様子を聞きながら手探りで準備を進めたという。
こうして日本の土に蒔かれたトライアスロンの種は、“バブル経済”という空前の好景気に後押しされ、その後急速に拡大していく。1985年には日本最大の湖である滋賀県琵琶湖にてアイアンマンジャパン初開催。日本はアメリカ、ニュージーランドに次ぐ3カ国目のアイアンマン開催国となった。ちなみにその時の男子優勝はデイブ·スコット、女子はジュリー·モス、日本人トップの城本徳満(しろもとのりみつ)はスコットから約2時間後のフィニッシュであった。また、日本屈指の人気大会、宮古島トライアスロン “STRONGMAN”と、日本初のショートコーストライアスロン大会、天草トライアスロンが始まったのもこの年である。メディアや広告代理店の力にも後押しされながら、この、アメリカ生まれの新しいスポーツは急速に拡大し、注目され、日本に根付いていった。
第2次トライアスロンブームと言える波が来たのは2010年前後。2007年の第1回東京マラソンをきっかけに始まっていた空前のランニングブームからスピンオフし、マラソン以上の達成感とクールさを求めてトライアスロン人気が高まっていった。
1998年よりトライアスロンメディアに関わり、第2次ブームを受けるかのように2011年に創刊されたトライアスロン雑誌「Triathlon Lumina」編集長の村山友宏氏はこう分析する。「第1次ブームはいわばメディアや広告代理店の仕掛けによってつくられたブーム。右肩上がりの経済にも後押しされた。第2次ブームはそれとは対照的に、草の根的に盛り上がってきたものです。ただ走るだけに飽きていたランナーが、次の挑戦を求めてトライアスロンへと流れてきた。その中には流行に敏感な女性も多くいました。現在はアクティブなライフスタイルの一環として定着してきているように感じますね」。1980年代後半の第1次ブームに乗ったのはいわば“冒険好きの超人たち”で、ごく普通の市民にとってはトライアスロンはまだまだ手の届かない異次元のスポーツであったのに対し、第2次ブーム以降、トライアスロンはぐっと身近なスポーツアクティビティになってきている。
現在のトライアスロン人口は30万人超。なかでもアクティブに大会に出場しているのが6万人ほどと言われている。もっとも厚い年齢層は40代。次いで50代、30代となっている。大会数はアクアスロン、デュアスロンを入れて160超。女性の比率は、増えてきているとはいえ全体の1割強とまだまだ少ないのが日本の現状である。多くはトライアスロンチームやスクールに所属するなど、なんらかのコミュニティに所属しトライアスロンを楽しむ。
大会においても、日本は独自の進化を遂げている。ITUのワールドトライアスロンシリーズ戦として毎年開催されている横浜トライアスロンのような、世界基準の大会もあるが、日本のトライアスロンを象徴する大会といえば、前出の皆生トライアスロン(Swim 3km / Bike 140km / Run 42.2km)や宮古島STRONGMAN(Swim 3km / Bike150km / Run 42.2km)、そして佐渡ASTROMAN(Swim 4km / Bike190km / Run42.2km)といった歴史あるロングディスタンス大会が挙げられる。いずれも、離島や地方の観光産業振興の目的で始まり、30余年の時を経て、エントリー困難な超人気大会に成長を遂げている。
昨年、筆者は佐渡ASTROMANにゲストとして招待されたマーク·アレン氏に通訳として帯同し一緒にコースを回ったが、初めて見る佐渡のバイクコースの絶景にアレン氏は「こんな素晴らしい大会を今まで知らなかったなんて!間違いなく世界一の絶景コースだ」と感嘆していた。世界標準の網の目からこぼれおちた隠れた秘宝のような大会が日本には多くあることをここでお伝えしておきたい。
一方で日本のアイアンマンイベントは現在苦境に立たされている。フルディスタンスのアイアンマンは2015年のアイアンマン北海道以来途切れたままで、現在は愛知県で70.3と51.5の同時開催があるのみ。コナを目指す日本人トライアスリートは、台湾や韓国、オーストラリア等の海外大会にスロットを狙いに行っているのが現状だ。フルアイアンマンの国内開催を望む声は多いが、費用の問題で実現の道は閉ざされたままである。
オリンピックを目指すエリート選手たちについても言及しておきたい。ITU戦で表彰台に上がる実力を持つ選手といえば女子の上田藍(うえだあい)。北京、ロンドン、リオ大会で日本代表として出場し、東京オリンピックでもその座を狙う。メディアの注目度も高く、知名度においても突出している。他に、アメリカでトレーニングを積む、現ランキングトップの高橋侑子(たかはしゆうこ)が代表の有力候補とされている。男子はリオ以降世代交代が明確になり、北條巧(ほうじょうたくみ)、ニナーケンジ、古谷純平(ふるやじゅんぺい)らが代表の座を競い合う状況。いずれも世界トップクラスのレベルには追いついていないのが現状で、JTUはミックスリレーでのメダル獲得を目指す方向性を示している。
一方、日本のエイジグルーパーたちはどのようにトライアスロンに取り組んでいる のだろうか。東京、広島、愛知に住むトライアスリートを取材した。
Age Grouper #1 Kenshiro Okada
岡田健士朗 男性、29歳、愛知県在住:

「コナ」という共通の夢を追い切磋琢磨するコミュニティに、「KONA Challenge」がある。そもそもはトライアスロン雑誌『Triathlon Lumina』の企画で、12名のメンバーが選出され、トレーニングアドバイスやパフォーマンス分析などさまざまなサポートを受けながらコナを目指すというもの。トレーニングは各自行うが、共通の目標に向かってメンバー同士が互いの成長を確認し、モチベーションを高め合っている。そのメンバーの一人としてトレーニングを続け、昨年のアイアンマン台湾でコナスロットを獲得したのが岡田健士朗さんだ。
岡田さんは、トライアスリートだった父親の影響で、キッズトライアスロンにも何度か出場した経験を持つ。自らの意志でトライアスロンを始めたのは大学時代。卒業し、スポーツアパレルショップに勤務したが、残業が多く土日に休みがとれない職場だったため、思うようにトライアスロンに打ち込むことができなくなる。そんな時に目にしたのが「コナチャレンジ」だった。すぐにコナへの熱い想いが詰まった自己推薦文を書いて応募し、メンバーに選出された。直感的に『これだ!』と思ったんです。それまで仕事が忙しいこともあって、トライアスロンに対してなかなか本気になれなかった。でも、これを機会に本気で取り組んでみようと思えたんです。スイッチが入っちゃったんでしょうね(笑)」コナチャレンジに本腰を入れるため、多忙でストレスフルだった職場を辞め、事務職に転職。週17~18時間の練習メニューをこなせるようになった。食生活も変えた。嫌いでほとんど食べなかった野菜を自ら進んで食べるように。おかげで体調を崩すこともなくなった。この変化には同居する両親も驚いているという。そして1年半後の昨年9月、岡田さんの本気の努力が通じてアイアンマン台湾で念願のコナロットを獲得することができた。「バイクからランに移る時点で前に2、3人。ここからどこまで順位を上げられるかという展開でした。レース中は苦しくて何度も弱気になりましたが、沿道で仲間に声をかけてもらって最後まで粘ることができました。レース後のアワード会場でスロット獲得が確定した時には思わず号泣してしまいました。実はトレーニングがあまりうまくいってなくて、DNSさえ考えていたレースだったんです」自身にとってのコナの意味を岡田さんはこう語る。「プロでもエリートでもない自分が輝ける場所。チャレンジしがいのある目標です。出場が決まった今、今度は自分が世界のどのあたりにいるのか、その差を確認しに行ってこようと思っています。1度出られたから満足、ではなく、そこから刺激をもらって今後の自分を変えていくためのレースととらえています」
現在の新型コロナによる影響についての想いも聞いてみた。「仕方がないと割り切って、やれることをやる。強い選手というのは、どんな状況でも工夫してやっている。自分が立ち止まっている間にもライバルたちは強くなっていく。今こそしっかりトレーニングに励んで、レースに出られる日が来たら、周囲を驚かせてやろうと思っています」
Age Grouper #2 Tetsuo Sato
佐藤哲朗 男性、44歳、広島県在住:

仕事、家族、トライアスロン。その最適バランスを保ちながら挑戦を続けているのが、広島市在住の佐藤哲朗さんだ。障害者スポーツ振興の仕事に携わる佐藤さんは、車椅子マラソンの先導でロードレーサーに乗ったことがきっかけでトライアスロンを始めた。以来15年間、ショートの大会を中心にトライアスロンを続けている。障害者に関わってきた知見を生かそうと、2017年にはITUの講習を受けてパラトライアスロンのクラシファイヤーの資格も取得した。「宮古島などロングの大会にも出てみたいとは思いますけど、仕事の休みが長くとれないので今は難しいんです。地元とその周辺の、日帰りで帰れる大会に出場しながらエイジグループランキングの上位を目指して練習しています」。ショートに特化しているため、短時間で強度の高いトレーニングが中心だ。仕事を定時で終えた後の1時間をトレーニングにあてている。週末も家族との時間を優先しているため、練習は2時間ほどのロングジョグか軽いバイクライド。1週間の練習時間は8~10時間程度だという。「仕事の時間があって、家族と過ごす時間あって、その残りの時間でトライアスロンを楽しむという感じです。他の人と比べると、僕の練習時間はかなり短いし、走行距離も少ないけれども、そういった限られた条件の中で、時間をコントロールしながら工夫していい結果を出したいと思って取り組んでいます」
地元のチームに所属しつつ、年に数回、元エリート選手が主催するバイク練習会にも参加する。トライアスリートとつながり、刺激をもらうとてもいい機会となっている。また、大会会場で有名選手に声をかけ、直接アドバイスをもらうこともあるという。現在、オンラインでスイム指導をうけている元日本代表の竹内鉄平(たけうち てっぺい)さんとの縁も、とあるトライアスロンの会場で佐藤さんが声をかけたのがきっかけ。SNSを通じて他地域の強豪エイジグルーパーとも交流を深めている。「僕にとってトライアスロンは生活のペースを作ってくれるもの。トライアスロンがうまくいってると、仕事もうまくいくし、逆もある。どうすればもっと向上できるかを考える、という点では、仕事もトライアスロンも変わらないと思っていす。仕事も競技もがんばっているトライアスロン仲間にいい影響を受けながら、目標を持って日々の仕事にトレーニングに取り組んでいきたいと思います」
Age Grouper #3 Masaki Kusunoki
楠雅喜 男性、50歳、東京在住:

東京都内にある外資系食品会社でカスタマーサービス部門のマネージャーを務める楠雅喜さんのトライアスロン歴は28年。大学卒業後、22歳の時に中古のロードレーサーを手に入れレースに初参加。以来トライアスロンを続けてきた。トライアスロンをやるうえでのモットーは「人と競わないこと」だという。2018年にはコナの舞台にも立った強豪エイジグルーパーでもある。「以前は大阪に住んでいたので、関西エリアの大会に参加していました。なかでも毎年出ていたのが、皆生トライアスロン。アイアンマンに本格的に挑戦するようになったのは6年前に転職で東京に引っ越して来てから。台湾、マレーシア、フィリピン、ケアンズのアイアンマンに出てきました。皆生では総合トップ50に常に入るぐらいの感じだったのですが、アイアンマンでは失敗ばかりでなかなか結果が出せずにいました。2018年のアイアンマンフィリピンで初めて満足いくレースができて、その結果としてコナスロットをとることができたんです」
練習は基本ひとり。ウィークデイの練習時間は仕事が終わって帰宅後。現在は単身赴任で家族と離れて暮らしているため、仕事以外の時間の多くをトレーニングに費やすことができている。スイムは近所の公共プール。バイクはほとんどインドアでZwift。ロードで実走するのは目標レース1ヶ月前からと決めている。ランは近所の公園を走る。週に1度、所属するランニングクラブのトラック練習にも参加している。1年半前、コナ初出場が決まったことを機にオンラインコーチングEndurance Nation に入会し、現在はそこか らもらう練習メニューをこなしている。「疲労のマネジメントにすぐれたプログラムで、これを始めてから安定して結果が出るようになったんです。多分、僕に合っていたのでしょう」と楠さん。メンバー同士の交流はあまりないが、海外大会でEndurance Nationのユニフォームを着た人に出会うと声をかけ合うという。トライアスロンを「自分のアイデンティティみたいなもの」と位置付ける。「仕事の場でも、同僚やお客様は僕を『アイアンマンの楠』として覚えてくれている。仕事ぶりよりアイアンマンで記憶に残っているのなら、やめたら自分が自分じゃなくなってしまいますよね」と笑う。
2020年のコナスロットをすでに獲得している楠さんだが、多くの大会が中止や延期になり、思うような練習ができない現状をどう感じているのだろうか。「トライアスリートは、不測の事態には慣れているものです。こんな状況でも、ポジティブな考え方ができる独特のメンタリティを持ってる。そういう気持ちを世の中に波及させていける存在でありたい。今年のコナに向けたトレーニングプログラムが5月半ばから始まるんですが、迷いなくトレーニングに集中していこうと思っています。できないことに悩むのではなく、できることにフォーカスする。それができるのがトライアスリートだと思ってますから」
Age Grouper #4 Tomomi Shinohara
篠原知美 女性、50歳、東京在住:

「トライアスロンが自分のアイデンティティ」。それは篠原知美さんにも共通することかも知れない。フライトアテンダントという仕事で患った座骨神経痛のリハビリがきっかけで水泳を始め、その2ヶ月後にアクアスロンに参加。さらにその約半年後にはスプリントディスタンスのトライアスロンを完走し、なんとエイジ優勝までしてしまったという。それが8年前、42歳の時のこと。「仕事をやめてからは子育てに専念していて、その期間は『●●ちゃんのママ』と呼ばれていました。それが、トライアスロンをやるようになって『篠原知美』という一個人になれた。嬉しいことであると同時に、ちょっとプレッシャーでもありますね」と篠原さんは言う。「でも初めてチャレンジしたスポーツで表彰していただいて、賞品までもらえたのが本当に嬉しくて。そこからすっかりトライアスロンにハマってしまいました」
学生時代は陸上短距離選手だったという篠原さん。トライアスロンでもその身体能力を存分に発揮し、トップエイジグルーパーの1人として数々の国内大会で表彰台に上がっている。ITUエイジグループ世界選手権やアイアンマン70.3世界選手権といった世界大会にも毎年のように出場を果たしている。「トレーニングは朝と日中。平日は朝4時半に起きてまずは子供のお弁当と朝食づくり。その後子供を起こしてから朝スイムに出かけます。日中は様々な用事を済ませながら空き時間でバイクやランのトレーニング。息子が学校から帰宅するまでが勝負ですね(笑)。夜はトレーニングしません」
トライアスロンがきっかけで、アスリートフードマイスターという資格も取得。現在はスポーツ栄養に関するエキスパートとして、セミナーやメディアなどでも活躍中だ。篠原さんは日本の女性トライアスリートのオンライングループ「トラ女子JAPAN」の発起人の1人でもある。現在の登録者数は400名ちょっと。今年1月には初のオフ会を開催し、50人ほどが集まった。
「海外の『Women for Tri』というグループに触発されて、その日本版を作ろうと、仲間6人と立ち上げたんです。生理や自転車のサドル、子育てとの両立など、女性特有の悩みを、男性の目を気にせず話し合える場をつくりたいと思って。何よりトライアスロンの楽しさを女性に伝えて、もっともっと女性トライアスリートが増えればいいなと思っているんです」
Kamaishi Hamayuri Triathlon
釜石はまゆりトライアスロン

最後に、トライアスロンが果たす地域コミュニティへの役割についても、ここで紹介したい。東京から北へ550km。太平洋沿岸に位置する岩手県釜石市には、今年30周年を迎えるトライアスロン大会がある。釜石は、2011年に東日本を襲った大地震と津波で甚大な被害を受けた地域でもある。トライアスロン会場は丸ごと津波に飲み込まれ、地域は壊滅状態。多くの人が亡くなったり、家を失うなか、大会関係者はトライアスロンの火を絶やすまいと努力を続けた。当時のことを事務局長の三上雅弘(みかみ まさひろ)さんはこう回想する。「周囲はがれきだらけで道路もない状態。それでも我々の中にあったのは、将来再び開催するための道筋をつけたい、という思いでした」道路がなくてもスイムならできると、2012年8月にはオープンウォータースイミングという形で再開。公共交通機関のアクセスもない中で100名弱の参加者が集まった。道路が少しずつ整備されてきた2014年にはスプリントディスタンスでトライアスロンを開催。2015年にはバイクのみ距離を短縮したオリンピックディスタンスでの開催を実現し、2016年には岩手国体のトライアスロン会場として完全復活を果たした。自らの家も流され、仮設住宅生活を送っていた三上さんには「やめる」という選択肢もあったはずだ。「やらないよりはやった方がいい。やれば人が来てくれるし自分たちも楽しい。トライアスロンは釜石のアイデンティティなんです。大会当日は200人もの地元住民がボランティアで協力してくれる。地域にとってトライアスロンはお祭り。地域をつなぐ絆になっていることは間違いありません」。三上さんは言う。「トライアスロンには人と人をつなぎ、状況を良くしていく力がある。人に、地域に明るさを届ける、それがトライアスロンの役割なのだと思います」
現在、新型コロナの影響で、東京オリンピックを筆頭に、上記で紹介したすべての国内大会が中止や延期を余儀なくされている。個々のレースへの情熱は宙に浮いたまま行き場を失っている状態だ。だが、今回取材したトライアスリートたちのスピリットは上を向いていた。「コントロールできないことを気に病むのではなく、コントロールできることにフォーカスする」。今こそ競技を通して得た学びを実生活に生かす時だと、多くのトライアスリートは直感的に感じているのだ。